先頃、国立国語研究所の「外来語」委員会が「外来語」の言い換え提案(第二回中間発表)を行いました1)。同研究所の発表文から第一回と
第二回の委員会提案に盛り込まれた語を見ましたところ、日本語でその意味を説明できるものから、全く見当のつかない言葉、また意味をとり違えて
いたものまでありました。それらの外来語を子細に比較しますと、対応する日本語との間に次のような特徴的関係が見られるように感じました。
いずれの言葉もそれらのひとつまたは複数の特徴を合わせ持つと思われます。
A群:元々の日本語に相当する表現がなかった概念を表す言葉。アイデンティティー他。
B群:日本語に類似する表現があるものの、意味にずれがあり、日本語を用いると語感が微妙に変わる言葉。インセンティブ他。
C群:日本語で表現する言葉はあるが、外国語だと簡明に表現できる言葉。ライフライン他。
D群:相当する日本語はあるが、何故か外国の言葉に置き換えた言葉。デリバリー他。
幾人かの友人にこの言い換え語の分類について意見を求めましたところ、思いの外見解に相違が見られました。その異同について大胆に分析しますと、 各自のよく使う分野の用語に関してはAやB群に入れたがる一方、縁の薄い用語については比較的簡単にD群に放り込む傾向があるようです。即ち、 自らが日頃からよく使う外来語について、人々はその言葉の持つ社会的、文化的意味まで込めようとしたり、文脈に応じて微妙な意味を表現する傾向が 伺えました。そんな折、「メセナ言い換え語提案に反対する会」が立ち上げられた旨の報道に接しました。上記委員会が提案した「文化支援」では この原語の持つ「見返りを求めない、社会的貢献としての文化支援」という意味が伝わらないとのことです。しかし、「見返りを求めない」だけに注目しても、 彼我における歴史的、宗教的、文化的な背景が大きく異なり、メセナは仏語の"mecenat"との間にも「文化支援」と同様に隔たりがありそうです。 ことほどさように立場により見方は違います。
明治期に導入した外来語の多くは、当時言い換え語が当てられ、今日では原語と似て非なる日本語として定着しております。他方、昨今 外来語にカタカナ言葉が好んで当てられる理由は、言葉の持つ意味の違いによるばかりではなく、その用語若しくは使い手に箔を付けたいとの期待も あるように感じます。即ち、文章に先進性、高尚さや個性を装わせ、使い手にはある種の進歩的印象を感じさせる表現装置としてこれを利用する 意図はないでしょうか。ただ、それは専門外の大多数に対してこけおどしとして働く一方、専門家にはおどけ者にしか映らない点が両刃となります。 筆者自身の以前の雑文をあらためますと、先のD類に分類でき、別の日本語で置き換え可能な言葉が散見します。それらの全てではないにしろいくつかについて、 心の何処かに内容の浅薄さを糊塗すべく、カタカナ言葉を使おうとする邪心がなかったとは断言できません。また、職場においてかかる話題に及んだ折、 「代償だけを部分的に行ってミチゲーション2)と言うが如しですね」と言い放った若手研究員もおりました。指摘のような実態があるとしたら、 同概念の根幹部分が大きく抜け落ちてしまったことになります。自らがいいように使ったはずが、その言葉に目を曇らせられる状況があるとしたら、 真にゆゆしい事態です。
カタカナ言葉は我々のまわりにあふれかえっており、先の委員会の趣旨では「官庁の白書や広報誌」などで数多く使われている旨指摘されております。 これを使う側にあっては、紹介しようとする概念・制度・技術の本質とその適用方法等についてきちんと伝えられるように留意したいものです。 カタカナ言葉の誘惑を乗り越え、真に使いこなすためには、その原典にまで遡ることが肝要と言えましょう。自戒。
参考資料
1) 第2回「外来語」言い換え提案(中間発表):(独) 国立国語研究所「外来語」委員会、2003年8月5日、http://www.kokken.go.jp/public/gairaigo/
Teian2_tyuukan/syushi.html
2) たとえば、「mitigationとミチゲーション」:川辺みどり、http://homepage2.nifty.com/research/czm-mitigation.htm